森博嗣『馬鹿と嘘の弓』(講談社文庫)

探偵事務所の所長小川令子と所員の加部谷恵美は不明の依頼人からとあるホームレスの青年を観察し日々の状態を報告する仕事を請け負うが、観察の過程で青年に接触した同じく住所不定の老人が急死し、その老人がなぜか小川たちが不明の依頼人から受け取ったものと同一の青年の写真を所有していたことから、この身元不詳の若者の正体をめぐる謎が深まっていく。

冒頭で登場する「社会学の本」が暗示する通り、事件の背後にあるモチーフとして格差や貧困、生きがいといった社会問題が取り上げられている。森のミステリーにはしばしば明確な動機を持たない犯人が登場するが、本作で掘り下げられているのはまさに個人の意思をこえた先にある社会の澱みである。ミステリーというよりは社会派のサスペンス小説に『森の生活』や『荒野へ』等のスピ的抒情性を足したような感じだが、理屈だけで中身がないチープな若者が登場し、しかも理屈だけで中身がない若者性を作者が美しいと考えて素直に提示しているのはいつものとおり。ただし本作では主人公加部谷の目を通して微妙に距離が取られているようにもみえる。探偵コンビのコメディタッチな掛け合いは相変わらず面白く、おそらく本シリーズの最大の見どころのひとつ。森博嗣のシリーズ作品のファンなら読んで損はない作品である。

 

 

安岡章太郎『海辺の光景』(新潮文庫)

 

故郷高知の精神病院に入っていた母親が危篤との報を受けて東京から帰ってきた主人公は、一年振りに見た母親の衰弱ぶりにいまさらのように狼狽するが、息子としての義務感から病院内で寝泊まりしてその死を看取ろうと殊勝な態度を見せるものの、以前からひとり田舎で妻のケアを担ってきた父親の前では後ろめたさをおぼえ、認知症が進行している母親からはいかなる人間的な反応もなく、医師や看護師が自分に向ける目はあくまで冷たい。窓外に広がる美しい岬の風景と院内で影のように生きる精神患者たちの姿を茫然と眺めながら、主人公は戦中から戦後にかけて、母親を狂気へと追いやった家族の記憶をなぞっていく。

人間性を喪失した家族の介護を問題としつつ、父親と息子の対立を描いているという点でカフカの『変身』と比較可能であるが、この物語で「虫」になるのは息子ではなく母親である。また、『変身』の主人公が虫になっても自分を家族の一員のままだと考え、失った地位を必死で取り戻そうと試みることから悲劇が生じるのに対し、故郷を長らく不在にしてから遅れて帰ってきた『海辺の光景』の主人公ははじめから余所者であり、局外者ゆえに一切の行為を禁じられているので当然ながら悲劇は生じず、主人公もそれを自覚したうえで出来事を見ているので物語にはひたすらな重苦しさがある。それではなにが主人公をこの場にひきとめ苦しめているかというと、それはすでに「家」を出て家族の関係が終わったのちも残り続ける母と子の関係なのである。この生暖かい経験の層が主人公の回想を通じて折り重なっていくが、これは平面上で玉突きをする具合に話が進行するカフカの小説には無論見られない。

アベル・ボナール『友情論』(大塚幸男訳、中公文庫)

私たちが友情と呼ぶほとんどの関係は、ただ慣習や同盟にすぎない。社会で生きていくなかで当然生じる人との付き合い(交際)は、惰性と打算と功利に満ちた利己的関係であって、ボナールに言わせるなら「真の友情」ではない。それは人の代わりに人の地位や機能を見ているからである。人を人として見、その品を品として評価することが友情の基礎となる。友情は獣たちの卑俗な野合ではない。友情とは貴族的関係である。

図書館でふと目に留まったので、最初の1節だけ読んでみた。そこで書かれていたのがおおむね上記の内容。なんとなくニーチェを思い出させるが、リアリストのニーチェが件の利害関係のほうに多く関心を向けていたのに対して、モラリストのボナールはそれを超えたところにあるしがらみなき友情のほうを見ているようである。いわゆる「友だち幻想」を批判した最初の本のようでもあるが、「真の友情」なるものを美化するばかりで現実的なアドバイスなどは見当たらない(もしかするとこの後に出てくるのかもしれない)。友達がいなくて悩んでいるタイプの人がこれを読んだらますます拗らせること間違いなし。ただし世間的なつながりを批判的に見る練習にはなる。

ベークライトのクラリネット

 私たちが普段いたるところで使っている合成樹脂(プラスチック)は主に石油を原料とするが、石油以外の原料からも製造可能である。それで最近はトウモロコシやサトウキビから作られたバイオプラスチックが話題になっている。

 ただしプラスチックももともとは植物由来の原料(セルロース)から合成されていたので、自然を排して純粋に人工的に生み出されるようになったのはベークライト、別名フェノール樹脂がそのはじめである。ベークライトはほんらい商標であり、1909年、ベルギー出身の化学者ベークランドによってそう名付けられた。

 記事のタイトルにある「ベークライトのクラリネット」は、ウンベルト・エーコの小説『フーコーの振り子』に登場する編集者ヤコポ・ベルボの回想で見つけたもの。数ある合成樹脂のなかでも歴史があるだけに、フィクション作品での採用率も比較的高い。ノスタルジックな趣があるが、もちろん今でも現役である。

筆箱にグミ

前回の消しゴム話のつづき。

 

消しゴムのドイツ語が「Radiergummi(ラディアグミ)」であると知った時、なんとなく不穏な響きだと思ったのを覚えている。その感覚はおそらく、「放射能」を意味するドイツ語「Radioaktivität(ラディオアクティビテート)」の接頭辞「ラディオ」に似た響きを持つ「ラディア」が、「グミ」という私たちが日常的に口にする可愛らしい菓子と結びついていることからくる、およそ直感的なものだっただろう。

 

当時の私がもう少し勤勉であれば、たとえば辞書を引くなりして、ドイツ語のRadierがラテン語の動詞radere、すなわち「ひっかく、かきおとす」に由来しており、化学者のキュリーによって発見され名付けられた放射現象とは語源的に全く無関係であることを確かめていたはずである──ゼラチン質のお菓子を指す「グミ」もまたドイツ由来のことばであり、かの国ではもともと単に「ゴム」を意味していたということも。

 

その労を取らなかったおかげというのもおかしいが、私の中では長らく、ドイツ人の筆記用具のなかに可愛らしい、しかしどこか危険でもある甘いグミが紛れ込んでいるというイメージが去らなかったのだ。

 

 

 

 

ステッドラーのマルス・プラスティック

トンボのMONO消しゴムを使い切ったので、新しいものをと探しに行ったら、たまたまその隣に並んでいた。外国製の字消しは使いにくいイメージがあったのだが、使ってみるとそんなことはなく、きれいに鉛筆の文字を拭い去ってくれる。

 

ステッドラーStaedtler)はドイツの会社であり、ゴムを覆う紙のカバーにも「made in Germany」という生産国表示のほか、「phthalat - und latexfrei」というドイツ語の表記がある。このドイツ語の意味が気になったので少し調べてみた。

 

最後の「frei」というのは、英語の「free」と同じく、「~から自由な」から転じて「~を使っていない」という意味。要は「フタラート(phthalat)」と「ラテックス(latex)」を使っていない、ということである。フタラート、とは耳慣れないが日本語ではフタル酸エステル、これは人体への悪影響が懸念される化合物である。いっぽうラテックスはゴムの原料として一般に使われているがアレルギー性がある。

 

トンボのMONO消しゴムにもフタル酸エステルは含まれていないが、ラテックス・フリーというわけではない。細かいところでいかにも環境先進国のドイツらしい製品である。

 

www.staedtler.jp

ガストン・ルルー『黄色い部屋の謎』(平岡敦訳、創元推理文庫)

舞台は19世紀末のフランス。パリ近郊のグランディエ城に引きこもり研究に没頭していた高名な科学者スタンガルソン教授と、彼の娘でありただ一人の助手でもあるマティルドのもとで痛ましい事件が起こる。二人が研究所として利用していた離れの別館にて、マティルドが何者かに襲撃され重傷を負ったのだ。ところが驚くべきことに、被害者の凄惨な姿が発見された別館の一室、通称「黄色い部屋」は、内側から厳重に閂がかけられた完全な密室だった。パリ中を震撼させた事件の謎を解くべく、若干十八歳の新聞記者ルルタビーユと、友人の弁護士サンクレールは件の古城を訪れる。だが、事件現場ではすでに、腕利きの警部であり数々の謎を解き明かしてきたフレデリック・ラルサンが調査を開始していた──経験と実証に信頼を置くラルサンと、理性と論理を重んじるルルタビーユが密室の謎を巡って火花を散らす中、城では第二の不可解な事件が起こる。

新訳は読みやすく、同時に古典ミステリの趣も残されていて〇。1907年の作とは思えない新鮮さがある。トリックに関しては措くとして、ストーリーのレベルでいわゆる「ミスリード」の手法が取られており、こちらの方に驚きがあった。自身の熱烈なミステリ愛(?)を語るジャン・コクトーの序文にも一読の価値がある。