ドストエフスキー『地下室の手記』(江川卓訳、新潮文庫)


主人公は四十歳の男で、二十年のあいだ地下室に住み、そこで病的な自意識と無益な格闘をつづけている。物語はこの男がある日試みに書き残した手記という体裁である。前半では長年男を苦しめている心理状態とそれに対する男の長々しい意見が、後半では男を地下室へと追いやった過去のとあるエピソードが語られている。

主人公を苦しめているのは、強烈な、そして同時に分裂した自己意識である。男はなにをするにもまずはそれをする当の「私」を意識せざるをえないが、行為する「私」とそれを意識し観察している「私」のあいだにはずれがあり、さらにこのずれを意識している「私」+1とは輪をかけてずれがあるので、行為の中心から無限に後退していく自我はなにひとつ満足にやり遂げることができない。しかし男はほとんどナルシスティックなまでに自己と他者の差異を意識してもいるので、いまさらこの「私」を捨て去って彼が言う「直情型の人間」のように、その場の感情や自分に与えられた役割に従順な素朴人として振舞うこともできない。今風の言葉で言い直せば、「陰キャ」は「ウェイ系」にも「意識高い系」にもなれないのである。

ドストエフスキーはこうしたタイプの人間を、あくまでも現代人の一つの典型として描いている。彼はあらゆる点において「ネガティブ」な人間であり、厳密に言うと、先に触れた「陰キャ」ですらない。というのも、「陰キャ」がなるほどマイナスではあるがやはり一つの積極的な性格であり、個人の逃れがたい特性を浮き彫りにした規定であるのに対して、主人公はそうしたマイナスの性格規定すらすべてはぎとられているからである。あるいは少なくとも、彼の自意識のうえではそのように考えられている。男は根暗でも、意地悪でも、怠け者ですらない。彼は何にもなることができない。彼は文字通りの「無」であり、彼に残されているのは、意味もなく生産性もない、口に出しては消えていくモノローグだけである。

このような男の手記を、私たち読者は当然ながら、文字通りに信じるわけにはいかない。なにしろ、彼は自分で認めている通り、あらゆる点において真剣でも、誠実でもないのだから。男の語りは常に二重性を帯びている。彼が「A」というとき、それは常に「B」という意識の裏返しなのである。すぐに思いつくのは、すべては男の言い訳であり、詭弁による自己正当化であり、心理的防衛であるという解釈である。たしかにそのように思わせる点は多々ある。けれども個人的には、上の主人公の考えを、いずれも荒唐無稽なものとして片づける気にもなれない。そうするにはあまりにアクチュアルな内容だと思うからである。

 

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