森博嗣『黒猫の三角 Delta in the Darkness』(講談社文庫)

舞台はどこかノスタルジックな日本の地方中核都市。おんぼろアパート阿漕荘に住む探偵の保呂草潤平は、ひょんなことからとある女性の身辺警護を請け負う。彼女は近所に建つ和洋折衷の大邸宅「鴎鳴六画邸」の現当主であり、何者かに命を狙われている可能性があるという。保呂草はアルバイトで彼の助手を務める大学生の香具山紫子と小鳥遊練無の二人とともに屋敷で開かれたパーティーに張り込むが、依頼人の他、彼女の父、夫、二人の子供、居候の男女、家政婦、そして「鴎鳴六画邸」かつての当主であり、現在は屋敷の敷地内にある離れの小屋「無言亭」に住んでいる瀬在丸紅子と使用人の根来機千瑛といった面々が集まるなか、一人自室に引き込んでいた依頼人は何者かに首を絞められ殺されてしまう。しかも事件現場は当時、文字通りの密室だった……。

久しぶり(10年ぶりくらい?)に再読。『すべてがFになる』から始まるS&Mシリーズに比べると影の薄いVシリーズだが、本書は表面的なミステリの向こうにさらなる奥行きのある設計で、犯人が分かっている状態で読んでも面白い。作者の志向からすれば、むしろ犯人が分かってからが本番、ということなのだと思う。個人的に、犯人はあまり頭の良い人間には見えなかった。物事を深刻に考えすぎであろう。

『イントゥ・ザ・ワイルド』Into the Wild (2007年) 監督:ショーン・ペン

幼いころからつづいた両親の不和で心に傷を負った青年クリス・マッカンドレスは、大学を卒業してすぐに家族から消息を絶ってアメリカ全土をめぐる旅に出発し、二年間の放浪を通じて社会の片隅に生きる様々な人間と出会い、最後に向かったアラスカで不慮の事故に遭い死亡する。原作のクラカワー『荒野へ』が「天才」と「冒険」を題材としてさまざまな実在の人物に取材したノンフィクション作品であるのに対し、こちらはあくまでも創作を織り交ぜたフィクション作品で、ストーリーもクリス・マッカンドレスの行跡に一元化されたうえで「家族」と「赦し」いうテーマのもと手堅くまとめられている。フィクションによる補正はどちらかというと効果的で、家族愛がこれでもかと強調されるあたりはややセンチメンタルで説教くさくもあるが、鉄道に無賃乗車していたら警官に有無も言わせず無茶苦茶に殴られるシーンなどは、社会を離れて自由に生きるとはそういうことだろうと思っていたので納得した。良い映画だと思う。

 

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ドストエフスキー『地下室の手記』(江川卓訳、新潮文庫)


主人公は四十歳の男で、二十年のあいだ地下室に住み、そこで病的な自意識と無益な格闘をつづけている。物語はこの男がある日試みに書き残した手記という体裁である。前半では長年男を苦しめている心理状態とそれに対する男の長々しい意見が、後半では男を地下室へと追いやった過去のとあるエピソードが語られている。

主人公を苦しめているのは、強烈な、そして同時に分裂した自己意識である。男はなにをするにもまずはそれをする当の「私」を意識せざるをえないが、行為する「私」とそれを意識し観察している「私」のあいだにはずれがあり、さらにこのずれを意識している「私」+1とは輪をかけてずれがあるので、行為の中心から無限に後退していく自我はなにひとつ満足にやり遂げることができない。しかし男はほとんどナルシスティックなまでに自己と他者の差異を意識してもいるので、いまさらこの「私」を捨て去って彼が言う「直情型の人間」のように、その場の感情や自分に与えられた役割に従順な素朴人として振舞うこともできない。今風の言葉で言い直せば、「陰キャ」は「ウェイ系」にも「意識高い系」にもなれないのである。

ドストエフスキーはこうしたタイプの人間を、あくまでも現代人の一つの典型として描いている。彼はあらゆる点において「ネガティブ」な人間であり、厳密に言うと、先に触れた「陰キャ」ですらない。というのも、「陰キャ」がなるほどマイナスではあるがやはり一つの積極的な性格であり、個人の逃れがたい特性を浮き彫りにした規定であるのに対して、主人公はそうしたマイナスの性格規定すらすべてはぎとられているからである。あるいは少なくとも、彼の自意識のうえではそのように考えられている。男は根暗でも、意地悪でも、怠け者ですらない。彼は何にもなることができない。彼は文字通りの「無」であり、彼に残されているのは、意味もなく生産性もない、口に出しては消えていくモノローグだけである。

このような男の手記を、私たち読者は当然ながら、文字通りに信じるわけにはいかない。なにしろ、彼は自分で認めている通り、あらゆる点において真剣でも、誠実でもないのだから。男の語りは常に二重性を帯びている。彼が「A」というとき、それは常に「B」という意識の裏返しなのである。すぐに思いつくのは、すべては男の言い訳であり、詭弁による自己正当化であり、心理的防衛であるという解釈である。たしかにそのように思わせる点は多々ある。けれども個人的には、上の主人公の考えを、いずれも荒唐無稽なものとして片づける気にもなれない。そうするにはあまりにアクチュアルな内容だと思うからである。

 

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岩田靖夫『ヨーロッパ思想入門』(岩波ジュニア新書、2003)

西洋哲学の基礎には古代ギリシアの思想とヘブライの信仰があり、まずはこの二つの基本的性格をおさえることが肝要である。そこで本書の三分の二は古代ギリシア哲学とユダヤ教キリスト教への入門編に割かれ、その後の西洋思想の展開は後半にかいつまんで解説する構成になっている。

筆者が「はじめに」で掲げるコンセプトはいたってシンプルなものだ。古代ギリシア思想の核心には人間の自由と平等の自覚、そして宇宙秩序の理性的・科学的探究がある。ヘブライの信仰の根底には神の超越性と神による人間への愛という考え方(ユダヤ教)、そして隣人への徹底した赦しの思想(キリスト教)がある。西洋思想とは常にこの変奏であり、またあるときにはこれに対する反抗である。

ジュニア新書の一冊ということであくまでも初学者むけに書かれたものであり、西洋思想を学ぶ人間がおさえておくべき基礎を漏れなく叩き込んでくれる。最近の哲学入門書にありがちな著者自身の「迷い」の身振りや「議論」の姿勢は一切ない。著者は常に知識の高みにいて、読者は低い立場からそれをただ静かに聞くことになる。そのため人によっては哲学者というよりも大学の先生を相手にしているような気持になって、「教科書的」「権威的」「独断的」等々の印象を受けるかもしれないが、そのように意欲ある読者はただ、本書を拳拳服膺したうえで他書をあたり、新しい視点を身につければよい。著者の圧倒的な国語を駆使した叙述にはほとんど文学的な趣がある。哲学を学ぶ中で三度読み返したい本である。

 

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『小説家を見つけたら』Finding Forrester(2000年)監督:ガス・ヴァン・サント

高い知能と恵まれた運動神経を有し、特に文学とバスケットボールの才能に秀でる16歳の少年ジャマール・ウォレスは、黒人の貧しい母子家庭の次男という境遇ゆえに兄と同じく才能を開花させることができないまま地域のハイスクールに通っていたが、放課後に彼が友人たちと遊んでいる様を高層アパートの窓から毎日観察している怪しげな老人ととあるきっかけでかかわりを持つようになり、見るからに異様な文学的素養と文章作成能力をそなえたこの老人がどうやら50年前に一冊だけ文学的傑作を書いて世間から姿を消した高名な作家ウィリアム・フォレスターであるらしいことがわかる。時を同じくして優秀な学力とスポーツの才能を認められた主人公は私立の有名校に編入することになり、初日からかわいい女の子と知り合い、バスケットボールではチームを勝利に導いてスターになり、書き物は老人の指導によってその高い才能が開花し文句のつけようがない高校生活を送っていたが、そのせいで文学的才能と人間的品位を欠いた悪辣な国語教師の反感を買うことになって主人公の生活にはふたたび元の暗い影が差し始める。王道だが退屈さを感じさせないよくできたドラマ。気難しい老作家を演じるショーン・コネリーが後半にただ自転車に乗って夜の通りを走るだけのシーンが印象に残った。

 

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マイケル・クック『1冊でわかる コーラン』(大川玲子訳、岩波書店、2005)

クルアーンコーラン)はイスラム教の聖典である。預言者ムハンマドに啓示された神の言葉(アラビア語)からなり、七世紀に成立以降、多くは冊子本の形にまとめられ、礼拝の場では読誦され、教義の上ではさまざまな解釈の対象になってきた。

単なるクルアーンの内容紹介にとどまらず、それをテクストとは何か、書物とはなにか、解釈とはなにか、といった人文学の基礎から説き起こしてくれる優れた入門書である。発しては消える一時的な言葉以上のものとして、つまりはある一つの形にまとめられて残された言葉をテクストと呼ぶとすれば、クルアーンはテクストのなかでも特に「書かれた」テクストであり、この書字性にクルアーンの物質的現実がある。本書を通して読むと、イスラムの神の言葉がアラビア文字と一枚の紙の上に物質化され、書物にまとめられ、それをさらに解釈者たちの注釈が取り囲み、礼拝の場でふたたび読誦の声へとかえっていく過程が具体的に目に見えてくるだろう。

本書はさらに、(キリスト教的)近代の技術と価値がイスラム教に与えた影響を、そもそも近代とはなにか、というやはり基礎的な問題の提示から分かりやすく教えてくれる。近年話題となっているイスラム原理主義もまたテクストの受容と解釈をめぐる一つの立場である以上、本書の内容は現代イスラム社会を理解するうえでも有益である。訳も良い。

 

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ジョン・クラカワー『荒野へ』(佐宗鈴夫訳、集英社文庫)

1990年代の初頭、アメリカの裕福な家庭で育ち大学も優等で卒業し文学青年としてそれなりに文化資本を積み上げた24歳の青年がヒッピー的な放浪癖を拗らせてアラスカの荒野に入りそこで横死するまでを描いたノンフィクション作品である。ソローやトルストイの理想主義をジャック・ロンドンのロマンチシズムで味付けしたらしい青年の世界観にはいかなる独創性もないが、持って生まれた性格とやむにやまれぬ衝動の強さが天才の証として繰り返し強調されることでこの事実は糊塗される。作者が全体として提示しようと試みている青年の求道者的人物像が、青年を知る第三者への取材から断片的に浮かび上がる具体的細部とあまり一致していないのが反物語的で個人的に面白かった。

 

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